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 永遠くんのこと 〜誕生と死〜


いのり

子どもを授かるということ

そして無事に生まれてくるということは

決して当たり前のことではなく

命と命を与えてくれたすべてのものに感謝すべき

奇跡に等しい出来事なのだと思います


私は2004年12月29日に待ち望んだ赤ちゃんを誕生死で亡くしました。

自分の気持ちに整理をつけるためと、永遠くんが生きた証に・・・と思って書きました。

ちょっと長く、当時の心情そのままの、とりとめのない文章ですが、

あえて、訂正せずに、そのままにしてあります。

もしよろしければ、どうか、ゆっくり読んでいただけたらと思います。

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永遠(とわ)くんが私のおなかに生まれたのは、2004年4月。
長男くんが2歳3ヶ月の頃でした。

まさにそろそろ次のこどもが欲しいと思っていた時で
ちょうど新築中だったこともあり
「新しい家族と新しい生活が始まるんだ!」という
喜びと期待でいっぱいの妊娠生活が始まりました。

長男くんの時はツワリがひどく、2週間ほどで7kg痩せて入院し
そのまま8ヶ月までツワリが続いたほどでしたが、今回はそこまでにはならず
体重も1kgほど減っただけで、6ヶ月頃には通常の生活ができるくらいに回復していました。

おなかが目立つ頃になってくると
長男くんは私のおなかに向って「赤ちゃんげんきですかー?」とか
おなかに耳をくっつけて「赤ちゃん何してるの?あ、朝ごはん食べてる!」
と、にこにこしながら話していました。

一緒にお風呂に入ったときなど、恥ずかしそうにしながらも、おなかにチュッとキスをしたり
私がおなかをオイルマッサージする時は必ず「ボクも!」と言って
小さな手で一緒にナデナデしてくれていました。

また、妊娠9ヶ月の頃から寝るときには必ず「ボクの赤ちゃん!」と言って
私が作ったウォルドルフの赤ちゃん人形を抱っこして眠るようになり
夜中に「あかちゃんどこ〜?」と言って寝惚けまなこで手探りで人形を探し
しっかり抱っこしなおしては
何事もなかったかのようにすぐスヤスヤと眠ったりもしていました。

臨月に入った頃からは、赤ちゃん人形を仰向けに寝かせては
「赤ちゃんね、おちりキレイキレイするの」と、オムツかえごっこを始めていました。

おなかが張ったり赤ちゃんに蹴られたりして、私が「いてて」と言うと
必ず「赤ちゃん、動いてるの?」と言って、おなかをヨシヨシしてくれました。

「赤ちゃんね、おとーとなの。ボクね、おにいちゃんになるの!」と
弟の誕生を本当に楽しみにしているようでした。

そんな様子を見ているのがなんとも可愛らしく嬉しく
私は、もうすぐ永遠くんに会える喜びと幸福感に包まれていました。

「永遠」という名前は、生まれてくる赤ちゃんのために
考えていたいくつかの名前の中から
「ぼく、これがいい!」と長男くんが選び
「キミはなんて名前がいい?」と紙に書いた名前を順番に読んでいたら
「永遠くん」と言った時におなかをポコポコと蹴ったので
こう呼ぶことにしました。

妊娠8ヶ月の頃でした。

今回は念願の自宅出産を予定していたのと
長男くんが1歳過ぎまでアトピーがひどかったこともあり
体重管理(臨月で+5.5kgでした)や食生活にも、 職業上の経験からも、自分なりに、しかし、かなり気を使って過ごしていました。

そうこうしているうちに家も建ち、引越しもなんとか無事に終わり
36週の病院での検診でも何の異常もなく
赤ちゃん肌着やオムツ、ベビーベットなども全て準備し
あとは陣痛を待つばかり・・・

と全てが順調だと思っていました。

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そして予定日まであと2週間となった2004年12月29日、38週0日の自宅検診。

ここ1〜2週間ほどで永遠くんもかなり下がってきていたし
胎動も少なくなっていたので
もう今日明日にでも生まれるのかもしれないな〜とのんきに構えていました。

ところがNSTでみたところ
「赤ちゃんの動きがとても小さく、出産のストレスに耐えられるかどうか・・・
もしかしたら心臓に異常があるかもしれないので、今すぐ病院に行ってください」
と助産婦さんが心配そうに言いました。
自分の心臓が、速くドクドクいうのがわかりました。

その前日、長男くんが唐突に、哀しそうに、
「赤ちゃん、もうダメだよ」と言ったのを思い出していました。

その時は、「コラッなんてこと言うの、縁起でもない!」とたしなめましたが
実をいうと私は妊娠が分かった時から漠然と
私はこの子を抱くことはできなのではないか・・・と感じていました。

でもそんな考えはすぐに打ち消し、いいや大丈夫!
と思うようにしていました。

とにかく、今ここで動揺していても仕方がない。
生きてさえいてくれれば心臓が弱くたって何だっていい。

それに臨月まで頑張ってくれた子だもの、少し小さめだけど
もう十分外に出て生きていけるはずだから、絶対に大丈夫!と
自分に言い聞かせ、急いで病院に向いました。

病院に着くとすぐにNSTをつけられました。
この時には永遠くんの心音はガクンと落ち始めていました。

先生がそれを一目見て、慌ててスタッフに帝王切開の準備を指示しながら
「経産婦さんだから下から生ませてあげようと思ったんだけど
赤ちゃんすぐ取り出さないと危ないからね、帝王切開するからね、分かるよね?」
と早口で言いました。

私は、「はい分かります、よろしくお願いします」と言い
看護婦さんに手をひかれて、足早に手術室に入りました。

永遠くんに動揺が伝わると良くないと思い、平静を装って
「いや〜何日か前まですごく元気に動き回ってたんですよね」 と言うと看護婦さんは

「そっか、じゃあもしかしたらその時にへその緒が首に巻きついちゃったのかもね、
すぐ出してあげるから、もう大丈夫だよ」と言いました。

「そうだ、きっとそうだ。私がこの子を信じてあげなくてどうするんだ」
と心の中で繰り返しました。

看護婦さんが手術室の前で待つ家族に
「手術が終わったら赤ちゃんが泣くのが聞こえますから、すぐ分かりますからね」
と話しているのが聞こえました。

でも私はその時、
「いや、きっと永遠くんは泣かないだろうな・・・」と思っていました。

バタバタと手術の準備が整い、硬膜外麻酔のみでの帝王切開が始まりました。
私には体質上、麻酔の後遺症が心配されるためと
産後すぐに永遠くんにおっぱいをあげたかったので
最小限の薬を使用しての手術だったため
覚悟はしていましたが、かなりの激痛でした。

永遠くんは骨盤にしっかりはまっていて、取り出すのに苦労しているようでした。

でも、永遠くんが助かるのであれば
だったらこんな痛みくらい何でもない!と
顎の感覚がなくなるくらい歯をくいしばって、
何度も気を失いそうになりながら、耐えました。

手術が始まって20分くらい経ったころ
「赤ちゃん、出ましたよ。」と誰かが言いました。
でも、永遠くんの泣き声は聞こえません。

すぐに私から見えないところに永遠くんを連れていき
スタッフ数人で何やら処置をしているようでした。

私は永遠くんのいるほうを、カーテン越しに、
無言で、じっと見つめていました。

永遠くんの声は、まだ聞こえません。
おなかを縫われている間も、先生もスタッフも誰も何も言いませんでした。

誰も何も言わなかったことで、私は永遠くんの死を悟りました。

自分の身に何が起きたのか理解していなかったのかもしれません。
あまりのショックで感情が麻痺していたのかもしれません。

涙も、出ませんでした。

産声も、おめでとうの言葉もない、カチャカチャと冷たい金属音だけが響く、
沈黙に包まれた、出産でした。

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血圧計や点滴に繋がれたまま回復室に移されて少し経ったころ
主人が来て「赤ちゃん、だめだったね」と言いました。

私は、そこではじめて永遠くんの死を聞かされました。

解剖をして死因をはっきりさせようかという話もありましたが
小さな体に傷をつけるかと思うと可哀相で
主人と相談して、それはしないことにしました。

そのあとのことはあまりよく覚えていません。
とにかく何も考えないようにしていました。

待ち望んだ赤ちゃんの突然の死を、現実のこととして受け入れられませんでした。

こんなことが自分の身に起きるなんて、信じられませんでした。
ほんの数時間前まで、もうすぐ永遠くんに会える喜びでいっぱいだったのに・・・。

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翌日の12月30日の夕方、永遠くんを家に連れて帰ることになりました。

私はまだ自力で立つことも体を起こすこともできなかったので
車椅子に乗せてもらい、冷たくなった永遠くんに会いに行きました。

その翌日12月31日には火葬にしてしまうことが決まっていたので
これが最初で最後の対面でした。
本当は産後すぐに会いたかったけど
会うことは死を認めることだ、と思うと躊躇もあり、怖くて、
それまで会っていませんでした。

永遠くんは、淡い水色のベビー服を着せられ
かわいい帽子をかぶって横たわっていました。

抱っこすると、思っていたよりずっしりと重く、
色白で目が大きく顔立ちもハッキリしていて、長男くんにそっくりでした。

でも永遠くんのほうが、ふっくらしていて、ちょっとかわいいかも。
長男くんは、細くてガリガリで、おじいちゃんか、宇宙人みたいだったもんね。

例え他に何十人と赤ちゃんがいても
絶対にこの子が私の永遠くんだと分かると思いました。

目を開けたらどんなに可愛かったろう、どんなに苦しかっただろう、
よく頑張ったね、生まれてすぐに抱っこしてあげられなくてごめんね、
おかあさん何もしてあげられなくてごめんね・・・
今まで堪えていたいろんな想いが溢れてきて
はじめて、人目をはばからず、大声で泣き続けていました。

泣きながら、冷たく硬くなった永遠くんを抱いて話しかけ続ける私を見て
看護婦さんは私が今までずっと冷静だっただけに
錯乱した(?)と思ったのか
「お母さん、大丈夫!?」と何度も私の肩をゆすりに来ました。

葬儀屋さんと主人が永遠くんを迎えにくるまでの1時間弱の対面でした。

最後に、持っていた携帯カメラで永遠くんの写真を2枚だけ、撮りました。

翌日の12月31日。私は入院中のため火葬場には行けませんでした。

寂しかったけれど、でも行けなくて良かったのかもしれないな・・・と後で思いました。

主人と長男くんと、私の母と妹が、永遠くんを見送ってくれました。
長男くんは永遠くんに、「いってらっしゃい」と手を振ってお別れしたそうです。

真冬の午後2時、永遠くんのカラダは、お空に還っていきました。

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入院生活は、大げさではなく拷問のようでした。
同じ階の目と鼻の先に新生児室があり、自分だけの個室にいても
絶えず赤ちゃんの泣き声や幸せそうな家族の笑い声が聞こえてきます。

本当なら私もそのひとりだったのに
どうして私がこんな目に遭うんだろう、
どうして永遠くんが死ななくてはならなかったのだろう・・・

そう思うと涙が止まらず、ぺちゃんこになったおなかを見つめながら
声を殺して泣きました。

産後2日目から
飲んでくれる赤ちゃんはいないのに、おっぱいが溢れ出てきました。

でも、おっぱいは止めなくてはいけないので絞ることもできず
熱が出て、ガチガチに張って痛むおっぱいを
夜も眠れずに、ひたすら冷やし続けました。
これほどまでに虚しく切ない行為って、この世にあるのだろうか・・・と思いました。

おっぱいを止めるホルモン剤を飲むと
必ず副作用で頭痛と吐き気が起こり動けなくなるのですが
この切ない辛さから1秒でも早く逃れられるのなら、そのほうがいい!
と思って飲み続けましたが、副作用ばかりがきつく、なぜか効きませんでした。

長男くんのことが、とても心配でした。

私以外の人と寝たことはなく、
こんなに長い間離れていたこともなかったのです。

でも長男くんは、私の10日間の入院中、
夜もぐずることなく、おばあちゃんと眠り
不思議なくらい良い子で過ごしていたそうです。

病室に来ても、上体を起こすのがやっとの私を目のあたりにしているせいか
抱っこをせがむこともなく

「おかあさん、だいじょうぶ?」と心配そうに言ってくれ、
いつも帰り際には
「ぼく、おりこうしてるからね!がんばってるから!おるすばんしてるから!」
と言っていました。

こんなに小さな子どもが状況を察し、私を気遣い
頑張ってくれていることがいじらしく
長男くんの存在が、精神的に何よりの支えになりました。

12月29日から1月7日と、年末年始にかかった入院だったため
「おめでとう」という言葉に接することが多かったのも辛かったです。

1日といわず、1時間でも早く家に帰りたかったので
先生にお願いすると1日だけ退院が早くなったのですが
退院前日に栄養士さんが明るく笑顔で
「このたびはおめでとうございま〜す!
 退院後の赤ちゃんとおかあさんの栄養指導に来ました!」
と部屋に入ってきました。

ぐっと堪えて
「うち、赤ちゃんいないんですけど・・・」と言うと、
驚いて書類を確認しながら、何も言わずに慌てて出て行きました。
あのときの憎しみに似た怒り、悔しさは、一生、忘れられないと思います。

退院の日の診察では当然ながら
他の赤ちゃんを無事に産んだお母さんたちと一緒に呼ばれました。

みんな並んで診察を待ちながら談笑していましたが
私はその中でひとり、涙を堪えてうつむいていました。

でも、どうしても居たたまれずに
名前を呼ばれるのを待たずに部屋に戻ってしまいました。

それから看護婦さんに、他の赤ちゃんを抱いたおかあさんたちと一緒に
退院指導を受けるように言われました。

ああ、もういやだ、泣き叫んでしまおうかと思いましたが
やはり人前ではそれはできず、その場はなんとか堪えて、静かに断りました。

そのすぐ後、婦長さんが部屋に来て
「ごめんね、ほかの人達と一緒にだなんて無神経で・・・叱っておいたから」
と言ってくれ、少し救われました。

また、産後の1ヶ月検診にも来たくないと言い張る私に
「次の妊娠のためにも、
検診は他の人達とは別の赤ちゃんがいない日に予約をいれるから、診てもらって」
と婦長さんは言ってくれました。

退院の診察時に、
初めて先生から永遠くんの死因についてきちんとした説明がありました。

まず、原因が心臓だったのか肺だったのか何だったのかは
解剖していないからハッキリとは分からないと。

おなかの中ではへその緒を通して呼吸ができていたけれど
外の世界に出るということは肺呼吸をするということで
要はそれができなかったのだと。

だから、おなかにいるうちは元気でも
臨月になって、赤ちゃんが生まれ出る準備を始めると
そのストレスに体が耐えられなくなったのだろうと。

だから、例えばもっと早く帝王切開したからといっても
助かりはしなかっただろうと。

また、妊娠中には赤ちゃんの大きな奇形や疾病であれば分かるけれど
今回のように見つけられないことがほとんどで
例え見つけられたとしても、この子の場合は胎内で手術が出来るわけでもなく
結果は同じだったろうということ。

先天異常ではないから、次の妊娠では、まず同じことはないでしょう、と。

おなかの中でだけ生きていられる・・・

「誕生」することがそのまま「死」だなんて、悲しすぎるけれど
これが永遠くんの天命であり、
私の今世での“学び“のプロセスのひとつだったのかもしれない。

だったら私は、永遠くんが精一杯生きたその生涯を
そのまま受け容れなければいけない、受け容れたい、と思いました。

たとえ短くても
永遠くんは与えられた天命を精一杯まっとうしたのだから。

わずかな時間なのを承知で
それでも私と一緒にいたくて、やって来てくれたのだから。

そして私がしっかり前を見て頑張っていたら
永遠くんはいつかまた私のおなかに還ってきてくれるかもしれない。

それが叶わなくても、今世ではなくても来世で
いつかどこかで必ず永遠くんに会えると信じて待っていようと。

    + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

1月7日、退院してタクシーに乗りました。
運転手さんは、おなかを抱えてフラフラと乗り込む私を見て
「まさか生まれるんですか?」と聞きました。

「いえ、退院してきたばかりで・・・」と言うと
こちらを見ずに「でも、もう安定期ですよね?」と言いました。
私はもう何も言えませんでした。

そう、永遠くんが誕生死したのは予定日間近の臨月でしたし
友人知人で私の妊娠を知らない人は、まずいないのです。

年賀状にも「1月に男の子が生まれます。」と書いて出してしまっていました。

これから人に会うたびに説明しなくてはならないのか・・・
頭では理解しているつもりでも、からだも心も、バラバラになりそうでした。

家に帰ると永遠くんは小さな白い骨壷に入っていました。
赤ちゃんは火葬をすると骨が残らないこともあると聞いていたけれど
小さくてもしっかりした骨でした。

妊娠中にエコーでよく見た大腿骨がキレイに残っていました。
なんだか懐かしい気持ちになりました。

私は骨壷を抱いて、声をあげて、やっと、思い切り泣けました。

頭では分かっていても、やっぱりあったかくて柔らかい永遠くんを抱っこしたかった、
おっぱいをあげたかった、かわいい泣き声を、笑い声を聞きたかった、
ずっと一緒にいたかった。

永遠くんのことは絶対に忘れない。
忘れられる、わけがないだろう。

戸籍にはいない、というだけで、長男くんと同じ、私が生んだ、私の大切な子だもの。

私をおかあさんに選んで、私のおなかに生まれてきてくれた永遠くんと
永遠くんに命を与えてくれた全てのものに感謝しています。

あなたと一緒に過ごした10ヶ月間、私は幸せでした。
本当にありがとう。
その幸せがずっと続くものだと思っていたのだけれど・・・。

絶対にまたいつか、どこかで、逢える。
その日が1日も早く来てくれることを
おかあさんは、心から願い、待っています。

    + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

最後に、ここまで読んでくださった優しいあなたにお願いがあります。

「まだ若いんだから、チャンスはあるよ」
「早く忘れたほうがいい」
「上にひとりいるんだから、まだいいじゃない」
「あなたよりもっと辛い人は、世の中にいくらでもいるんだよ」
「もう生めないわけじゃないでしょう. また生めばいいんだよ」
「もし生きていたとしても障害が残ったんじゃない?これで良かったんだよ」

と言うような言葉を
どうかあなたの周りの子どもを亡くした母親にかけないでください。

もちろん慰めようとして言ってくれているのは分かります。

でも、亡くなった子どもの人格を
ひとりの人間の死として認めないこれらの言葉は
ただでさえ自分を責めてしまいがちな母親を更に傷つけるだけです。

また、悲しみや辛さって、どうやって量るのでしょう?
どうやって人と比べるのでしょう?
上に子どもがいたら、我が子の死を悲しんではいけないのでしょうか?

世の中には、
いくら望んでも子どもを授かることができない人たちもたくさんいることを思えば
確かに私は十分すぎるくらい幸せなのだとは、思います。

でも、これは大切な我が子の死を悲しむことさえ許されないと言われているのと同じです。

私が救われたのは
永遠くんの死と私の気持ちを想って、ただ泣いてくれた人たちがいたこと。

「我慢しないで、たくさん泣いてね」
「私は永遠くんのことを、いつまでも忘れないよ」
「赤ちゃんも、ここまでおかあさんと一緒にいられて幸せだったと思う」
「妊娠・出産の喜びが分かる分、辛いね」
「おっぱいが出るのは赤ちゃんが生きていた証だね」
「赤ちゃんはあなたの子どもで、幸せだったと思うよ」
「その栄養士や看護師はありえない、同じ医療者として申し訳なく思う」

という言葉たちです。

命の価値は、単純にその長さに比例するものではないと、私は思います。
たとえ短くても、同じ尊い命です。
たとえ小さくても、大切な、かけがえのない命なのです。

確かに生きていた、私の中で動いていた、あたたかい命の存在は
母親にとって忘れようとしても忘れられるものではないし
いや、忘れてはいけないものだと思います。

どうか、「触れてはいけない話題」とタブー視せず
生きている子どもと同じように
当たり前のこととして、亡くした子どもの話をさせてください。
聞いてあげてださい。
その子の存在を認めてあげてください。

お願いします。

長男くんが、「永遠くんに会いたいの。一緒に寝たいの・・・。
永遠くんどこにいるの?おかあさん。お空のうえのほう?
おじいちゃんと一緒にいるの?キラキラになっちゃったの?
・・・永遠くん、きっと、ハイハイして遊んでるよね」
と言っています。

2005/01



※以下に、永遠くんの写真を載せています。
 みたくない方は、ここから下は絶対にスクロールしないでください。
 気持ち悪い、載せるなというご意見をたまにいただきますが
 「ここ」は、私の心の庭ですので、自己責任でお願いします。






永遠 Towa

2324g 43.0cm

2004年12月29日 38週0日で誕生死

原因不明

line

妊娠満22週以降の“後期死産”は

統計によると

全出産に対して約0.43%です。

永遠くんのようなケースとなると更に稀です。

赤ちゃんの死因は

解剖してみないと原因が分からない場合が

ほとんどです。

しかし

私たちのように解剖を希望しない親が多いため

原因不明となる事が多いようです。




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